そもそもの県知事選出馬の動機が戊辰の役150年の節目に当たっての総括とも言える様々な行事への「そうじゃねえだろう」みたいな不信感が根底にあった。戦った当の会津藩の城主松平容保が私が生まれ育った東京、それも40年近く住み慣れた目黒で亡くなったと知らされた(司馬遼太郎の王城の護衛者等)事による。これを当の会津若松の諸施設に確認したところ、それは間違いで小石川ですと一応に答えた事の不信感が、総ての行事への不信感へと高まり、俗化した、劣化した、会津に限らない福島県民への警鐘とも言える、恐らく立候補者が有権者に向かってお願いするのではなく説教、言わば辻説法。大した能力も、実力も無い奴に説教された事への反感があるだろうの心配は勿論あったが、年齢が年齢である事と、先の大戦の総括と言う意味も含めて、それを語る事の出来る最後の世代という自負もあって、説教調を敢えて貫き通し、私自身、主張している事の正当性を充分に承知している事もあって、最下位と言う結果に何の悲壮感が起きることは全く無く、僅かに白河で最下位を免れた事が逆に、白河での再起という一点の光明がはっきりと見える事になった。何の遠慮もいらない、白河こそが東北の都であるべきだと。
容保が執拗に戦った誉は次のように総括できるだろう。そもそも民の財を悉く略奪し、非情な殺戮を繰り返した西軍は天皇の名を借りた全くの賊軍であり、許すことの出来ない「君側の奸」そのもので、これとの戦いはまさに正義の戦い、容保公としては最後まで戦う強い意志を持っていた筈である。しかし、越後口総督の仁和寺宮が錦の御旗(偽物?)を掲げて越後街道を高寺まで押し寄せて来た事を米沢藩から知らされ、勤王の藩である会津藩は米沢藩の斡旋を受けて、天皇の軍に抵抗する事を本意とせず、潔く矛を収め降伏開城を決意した。この事の経緯に何等矛盾は無くお見事と言わざるを得ない。
なのにである、150年もの長きに亘って朝敵、国賊呼ばわりされるのを許し続けている現状を憂えているのは私だけなのだろうか?この150年の節目が最後のチャンスと決起を促すも反応はまるで感ぜず、説教じみた私の演説には反感すら感じたのだろうか結果は最下位!でも白河では僅かではあるが最下位とならなかった事が私にとっては光明。ここは、遠慮なしに白河こそが「東北の都」と、改めて戦意高揚させております。
題して、甦れ!古代律令国家「白河」ですね。今回の選挙で、新幹線で新白河駅通過がどれだけ悔しかった事か!東北の玄関が馬鹿にされているよね。来年の市長選、出れれば公約の第一は、「通過阻止!必ず止めさせます!」でしょうね。白河を東北の第一の都にします!
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